【WIRED】Co-Economyは未来を実装する:「SHARE SUMMIT 2019」開催に寄せて
TEXT BY WIRED MICHIAKI MATSUSHIMA
SHARE SUMMIT2019 スペシャルメディアパートナーであるWIRED 日本版 松島倫明 編集長より、今年のテーマ 「Co-Economy」に向けたビジョンメッセージを頂きました。
Co-Economyは未来を実装する:「SHARE SUMMIT 2019」開催に寄せて
https://wired.jp/2019/09/10/co-economy-share-summit-2019/
日本におけるシェアリングエコノミーの発展を牽引してきた「SHARE SUMMIT」が、今年も11月に開催される。今年のテーマである「Co-Economy」は、政府、自治体、企業、シェア事業者、個人が手を取り合い、“共創と共助”による新しい経済・社会の実現に取り組むことを掲げている。キーセッションでは『WIRED』日本版編集長の松島倫明が、衆議院議員の小泉進次郎やカルチュア・コンビニエンス・クラブ社長兼CEO の増田宗昭らと、日本におけるCo-Economyの可能性について語り合う。なぜいま「Co-Economy」なのか──。SHARE SUMMIT開催に先駆けて読み解いた。
「Future Literacy」という言葉がある。未来についてのリテラシー、いわば未来を想像したり読み取ったり、あるいは受け入れたり拒否したりするその能力のことだ。未来を語ることは、人々に希望も絶望も与えることができるし、それによって歴史を動かし大衆を扇動することもできる。かつてニーチェは「過去が現在に影響を与えるのと同じように、未来が現在に影響を与える」と言ったけれど、その意味でFuture Literacyはいつの時代にも、人類の命運を決める最も重要な資質のひとつなのだ。
ちょうど1年ほど前にリブートした雑誌『WIRED』日本版で真っ先に「NEW ECONOMY」を特集したのは、それがまさにFuture Literacyを問うものだからでもあった。1990年代の「デジタル革命」とともに予見された「新しい経済」はいまやぼくらの社会に実装されつつあり、デジタル経済によってフリーでオープンで分散化されすべてが繋がった経済は一方で、ネットワーク効果によるプラットフォーム寡占によって、膨大なデータが一部企業に莫大な利益をもたらしながら、人々は共感のインフレと脆弱なプライヴァシー環境のなかでフィルターバブルに閉じ込められてもいる。
ぼくたちの日々の選択とクリックによって生み出される膨大なデータは果たして誰のものなのか? それをどう経済に活かすべきなのかは、現代における最も先鋭的な問いとしてある。アメリカ型の「データ資本主義」や中国型の「データ全体主義」に対して、欧州連合(EU)はDECODEプロジェクトによって個人データの「コモンズ化」を目指している。個人データの商用利用に対して単に「プライヴァシー」としてそれを守るだけなく、公共の利益に資するものであることは間違いないのだから、しっかり公共財として扱おう、というわけだ。
それはまさに、どのようなNEW ECONOMYを描くのかが問うものであり、「人間の基本的人権」のアップデートからEUが掲げる「デジタル・ヒューマニズム」の定義にまで及ぶ問題だ。日本ではこうした本質的な議論がなされないままに、2020年を迎えようとしている。
変わるシェアリング・エコノミーの存在意義
今年、「SHARE SUMMIT」が掲げる「Co-Economy」とはその意味で、日本から描く「新しい経済」像を提示するものだと言っていいだろう。アメリカや中国のように突出したプラットフォーム企業があって都市をまるごとひとつ実験場にするわけでもなければ、EUのように補完性原理が明確で個人やローカルの主体性に根ざした地方分権が確立された文化でもない日本において、「政府、自治体、企業、シェア事業者、個人」が“共創と共助”によって実現する新しい経済・社会像は、その意味で日本に唯一残された選択肢なのかもしれない。
ぼくがレイチェル・ボッツマンの『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』(NHK出版)を手がけてそろそろ10年が経とうとするいま、シェアリング・エコノミーの存在意義もまた、大きく変わろうとしてる。大量生産・大量消費経済からの脱却は、『シェア』の主テーマとしてあったけれど、近年のクライメートアクションへの高まりによって、やっとシェアと気候変動の文脈も喫緊の課題として結びついてきた。
「消費」の見直しを迫るシェアはさらに、データを独占するプラットフォームをいかにもう一度ユーザーたちで「シェア」するかという、プラットフォーム・コーポラティヴィズムの可能性へと発展している。「NEW ECONOMY」特集でもとりあげたこのムーヴメントは、いわば「創造」のシェア(つまりは共創だ)をも促している。ブロックチェーン技術による「価値のインターネット」の到来は、これまで「お墨付き」を与える存在としてあった「公」や「ブランド」の存在意義を大きく変えていくだろう。
新しい経済を語るときに最も大切なこと
今夏、アメリカで大企業200社以上が加盟する経済団体「ビジネス・ラウンドテーブル」が「株主第一主義」からの脱却を宣言して話題になった。従業員やサプライヤーや顧客、地域コミュニティと社会、そして自然環境といったあらゆるステークホルダーについて、株主の利益と同様に考えるべきだとしたのだ。
これは日本の(古きよき)企業からすれば、いわば「当たり前」のことにも聞こえるし、まさに「Co-Economy」が掲げる共創・共助の経済だけれど、いまや先進国は「社会のディープイシューを解決しないビジネスに存在理由はない」とサーキュラー・エコノミーや環境・エシカルに明確に舵を切っているばかりでなく、そうしたナラティヴを本当に実装できているのかどうかが日々、真摯に問われる新しいフェーズへと突入している。そんななかで日本から「Co-Economy」の価値観を本気で提示できるのか、その覚悟がぼくたちに問われていると言えるだろう。
新しい経済を語るときに最も大切なことは、それが誰を豊かにするのか、何を豊かにするのかという問いだ。つまりは、経済は目的ではなく手段にすぎないのだから。『WIRED』で「NEW ECONOMY」の次に「DIGITAL WELL-BEING」を特集したのは、新しい経済のその先にぼくらが目指すものについて、しっかりと提示しておかなければならなかったからだ。戦後日本は、1人あたりGDPが右肩上がりに成長したのに対して、「生活満足度」がまったく上がらなかったというまったく笑えないデータがあって、それはつまり、物質的豊かさではなくウェルビーイングの向上に、経済が必ずしても貢献してこなかったことを意味する。
ウェルビーイングを語る上で、西欧的な個人に根ざした幸福の尺度に対して、日本的とも言えるウェルビーイングのあり方について、ドミニク・チェンさんが「DIGITAL WELL-BEING」特集で紹介している。「個」を起点に語られるウェルビーイングではなく、他者や環境との関係性において生成変化する、いわば「共」のウェルビーイングというものであって、それは経済における「共創」や「共助」、つまり端的には「シェア」を語る上で、もっとも大切な視点ではないかと、ぼくは思うのだ。
「個人」のデータを起点に経済を積み上げるのではなく、個と共が重なり合う経済を築くこと。「Co-Economy」によってぼくらはどんな未来を実装できるのか、いまこそFuture Literacyが試されている。
『WIRED』日本版編集長 松島倫明
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◇松島氏も登壇するキーセッション詳細ページ
https://www.facebook.com/events/1316497841847049/?ti=icl
◇当日のタイムテーブルと申し込みについて
https://sharesummit2019.com